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海と山と人をつなぐ。  都会のヤンキーが「旅する料理人」になるまで


共働きの両親と暮らすいわゆる“カギっ子”だった男の子。家でひとり過ごす間、キッチンの棚に並ぶ調味料やスパイスに手を伸ばした。ごはんの味付けをあれこれ試すうち、気づけば料理が「日常」になっていた。

ソウダルアさんは店を持たずに、いろいろな場所に出向き料理をふるまう「出張料理人」だ。

日本各地、その土地で採れた食材のみをあつかい、歴史と風土が交差する料理を和紙の上で表現している。それは、まるでアート。彼のインスタレーション映像から伝わるだろうか。

香川県三豊市 仁尾 父母ケ浜。
撮影の間だけ風がなくなった。
奇跡のような夕焼けの中、料理人がその土地の自然と向き合う。
仁尾の海と山と人のつながりを、料理で表現した。

撮影後は、地元の人たちとテーブルを囲み食事を楽しんだという。その土地の素晴らしさを、食を通じて現地の人たちに伝えていく活動だ。ソウダルアさん、そこにたどり着くまで、いったいどんな人生を旅してきたの?

震災の夜、ロウソクの光の中で家族と囲んだ食卓

ソウダルアさんは大阪で生まれ、兵庫県で育った。父はコピーライター、母はスタイリスト。両親ともに仕事が忙しく家族と過ごす時間は少なかったが、それほど寂しさは感じなかったという。5歳のとき料理に目覚めたルアさんは、10歳になる頃にはスパイスを調合してカレーを作るほど、料理に夢中になっていた。

ターニングポイントとなったできごとが阪神淡路大震災だ。

14歳のときだった。自宅のある兵庫県西宮市は震度7を記録した。ライフラインがすべて止まった真冬の暗い部屋。この先どうなるのか不安が募った。「冷蔵庫の食べ物が傷むから」と、母がカセットコンロを出してきた。食卓にロウソクを灯し、肉や魚、野菜、いろいろな具材がたっぷり入った鍋を家族3人で囲んだ。

「心はあたたかく、つかの間の楽しい時間でした。どんなに大変なときでも美味しいご飯を前にすると人は幸せになるんだなあと思いましたね。今でも、あの食卓の風景が忘れられません。僕にとっての原体験かもしれません」

甚大な被害をもたらした大震災。中学校は数カ月間休校になった。避難所に家族で身を寄せ春まで暮らした。水汲みを手伝ったり、ガレキを撤去したりして過ごした。

家族は大阪に引っ越すことになった。中3の半端な時期に転校したこともあり学校自体に馴染めなかった。受験が遠のいていくのがわかった。「震災で環境がガラッと変わってしまって、人生狂ったなと思った」と、ルアさんは当時の心境をふり返る。

高校に進学したものの、バーや飲食店でアルバイトをしたり、ファッションモデルの仕事をして小金を稼ぐなどした。「震災以降ちょっとした反抗期が続いて、先輩たちとつるんで夜遊びしていました。クラブであばれたりする、まぁよくいる都会のヤンキーでしたね(笑)」

鬱屈していた高校時代、親とぶつかることも増えていった。「家を出て行け」といわれたらすぐにでも出ていけるように、バイト代を貯めて、転がり込める先輩の家を確保した。案の定「出て行け」といわれたときは、しめしめと荷物をまとめて家を出たという。高校2年のときだった。

「とはいえ心配して連絡してくるだろうと思ったんです。でも1週間たっても2週間たっても親からは連絡なくて。2年以上も音沙汰なしでした。すごい親だな(笑)。それから家には帰っていません」

飲食店プロデューサーで業界デビュー

ちょうど20歳になったある日、スタイリストからフードコーディネーターに転身したという母から連絡があった。大阪の商業施設でレストランやバーのメニューづくりを手がけることになり、プロデューサーとして息子であるルアさんを指名したのだ。

ルアさんは、コンセプト設計から店舗の内装、食器選び、メニュー作り、原価やコストの試算などなど、開店のための段取りをひと通り経験することになる。

「店の立ち上げはバタバタと大変でしたが、苦労よりも達成感があり楽しかったです。飲食店でのバイト経験が大いに役立ちました。ちょうどカフェブームが始まった時期だったこともあり、その後も大阪で数店舗のプロデュースを手がけました」

そして22歳のときに上京したルアさん。東京では、飲食店の立ち上げを25店舗ほど手がける。東京の飲食業界ではカフェブームからケータリングの波がやってきていた。

「カフェ飯に自分自身も少し飽きていたから、ケータリングに興味をもってケータリング会社をつくったんです。パーティやイベントに呼ばれ、ハレの日の料理をふるまう。とてもワクワクしました。良い食材も使えるし、ピンチョスめっちゃおしゃれやん!って(笑)」

26歳、ついに店をもつ

ケータリングから出張料理人になったと思いきや、26歳になったルアさんは自分の店を開店することに。「店はぜったいに“人”が大事」と考え、メンバー集めに奮闘する。センスが良く話がおもしろいバーテンダー、人気店で一番腕のいいシェフ、イケメン料理人などなど。華やかでエース級の料理人たちを時間をかけて口説いた。

満を持してオープンしたお店は「ぜったいにうまくいく」はずだった。

「エースばかりを集めたら、みんなの個性や主張が強すぎて、メンバー同士がぶつかり合うようになっていったんです。いつも誰かが誰かの愚痴をこぼしていて、店の雰囲気も楽しくなくて。いやいや、スター選手が集まれば、ぶつかり合いながらも互いを高め合って、最強のチームになるって信じていたんですよ。スラムダンクみたいに、最後はハイタッチちゃうんかと(笑)」

ひとり、またひとりとスタッフは去り、気づけばたったひとりで店を切り盛りするようになった。

「あのときはめちゃしんどかった」というが、なんとか続けていくうち、彼の独特な料理を気に入った人たちが通いつめてくれるようになった。ルアさんはふと思った。「そういえば、子どもの頃、料理好きだったな。こんなふうに作りたいものを無邪気に作っていたな」と。

看板もメニューもない。その日仕入れた旬の食材を使って料理をふるまう。ルアさんの店は、人が人を呼び、いつしか人気店になっていた。

東日本大震災で直面した壁

そんななか、東日本大震災が起きた。またしても、大きな災害によって彼の人生に転機が訪れる。

「僕の店では、国産の食材メインに扱っていたんです。だけど震災による原発事故の影響で、食材が思うように集まらなくなってしまいました。しばらくして仕入れはできるようになったけど、安全性を担保できない。お客さんからお金をいただくことにためらいを感じました。そこで、メニューに値付けをせず、食べてくれたお客様が“お気持ち分”を支払うドネーション方式にしたんです。店の入り口に壺を置いて、帰り際にお金を入れてもらいました。いわゆる投げ銭ってやつですね」

しかし、安全な食材を一定量確保できる見通しが立たなかった。ルアさんは仕方なく、3年ほど続けたお店をたたむ決断をした。

暇になったら呼ばれるようになった。「出張料理人」の誕生

店をたたんだルアさんに「料理を作ってほしい」と声がかかるようになった。音楽・アート系のイベントや企業のレセプションパーティなどだ。

「ただの暇人なので、声かけやすかったんだと思います(笑)」

店でふるまう料理と、出先でふるまう料理。後者の方が性に合うと感じた。

「お店だと、料理にそこまでサプライズが求められないんですよね。ある程度、メニューが決まっていてお客さんもどんなものが食べたいかを想像してやってくる。あのとき食べたアレがまた食べたいとリピートするお客さんもいるでしょう。でも旬の食材ってそのときにしか味わえないんです」

友だちの家で料理を作る感覚で、自然と地方にも足を伸ばすようになったルアさん。こうして、旅しながらその土地の作物を使う出張料理人になった。店をたたんで暇になったからこそ旅に出ることもできたのだ。

「旅先で手に入れたその土地の作物は、おのずと旬の食材なので本当に美味しんです。都心のスーパーに売っているものは、育てやすく生産量が確保できて費用対効果がいい。ある意味しくみ化されているんですよね。だけどその土地で採れる野菜は、香りも全然違います。島に行くと、妙に野草に詳しいおじさんとかがいたり、おもしろい出会いもある」

料理人が出向けば、フードロスも減らせる

旅を通して、ルアさんはフードロス問題にも関心を抱くようになった。

「農家の作物は3〜4割破棄されているといわれていますよね。形がそろっていなかったり、傷むのが早くて流通できなかったり。小さすぎて売ることができない魚など。流通に乗らないけれど美味しいものがたくさんあると気づきました。どんな食材にも美味しくなる権利とチャンスがある。人々が見逃すような、捨られてしまうようなものを、どうすれば美味しく食べられるようになるだろう

その問いの答えが、彼が作りたい料理のかたちとなった。

「美味しい料理をつくるために素材や調味料を取り寄せるのではなく、そこにある素材のためにふさわしい調理場を、その場所に用意する。素材こそが主で、僕はそこに赴き、そこで暮らす人たちのための料理をつくる。そうすれば捨てられてしまう食材も美味しく食べてもらえる」

貝の煮汁をジュレにすれば、海の美味しさを丸ごと味わってもらえる。
捨てられてしまう笹の葉っぱで、魚を包み焼きにすると料理の香り付けになって美味しい。
あまり知られていないけれど実は食べられるお花や実がたくさんある。
野草のオオバコを噛み続けるとブルーチーズの味がする。

素晴らしい景色に出会ったら、地元の人たちにサプライズを返す。

その一方で、彼が暮らす東京のシェアコミュニティでも、“家族”のためのごはんを作っている。ときに仕事や遊び仲間たちに“まかない”を作ってあげることも。そこにはいつも人の笑顔が溢れている。

5歳のとき料理に目覚め、今でも料理を続けている理由を聞いた。

「自分の好きな人と毎日おいしいごはんを食べる。それだけ叶っていれば、どんな人生だって幸せでしょう」

あの震災の夜に家族で囲んだ食卓がそれを証明していたのだ。だから彼はこれからも愛する人のために料理を作る。山と海と人をつなぐ旅はつづく。

 *

取材・文:川崎 絵美 写真:川しま ゆうこ 編集:錦光山 雅子


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Torus (トーラス)

Torus(トーラス)は、AIの社会実装を手がける、株式会社ABEJA(アベジャ)のオウンドメディアです。「テクノロジー化する時代に、あえて人をみる」というコンセプトで、人間らしさと向き合う物語を紡いでいきます。

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